2009年10月18日日曜日

オートバイと筆記具

GKというデザイン集団がある。
特にYAMAHAのオートバイのデザインで実績を残してきた。
私との接点としては、GK設計という形で建築のデザインに携わった事例を見てきた。
日本人らしい素晴らしい集団だと思う。

そう、日本らしさを感じるのだ。
たとえば毛筆であっても面相筆のような緻密さ。
マニアックな表現としては、Hの芯で0.4mmの堀の深さで切りつける感じ。

あえて共感を得るにはあまりにも狭いオートバイのデザインでいうと、GK=YAMAHAの繊細さに比してHONDAの太さがある。これは計算された力強さであって、繊細なものをあえて2Bの先の丸まったホルダーで描いた感じがする。

SUZUKIはクレヨンで描いたような曖昧さを敢えて残す意図を感じるし、KAWASAKIは確信犯的にいきなりロットリングでインキングしている感じ。

書いていて我ながらこれって独りよがりが過ぎるよなと思いつつも、とりあえずポスト。

Kindle

webの世界は門外漢な私ですけれども、AmazonのトップページがKindleでそれがページまるっと画像データでAmazon.usに飛ばしますかそれって手抜きって言わないですかそうですかすみません。ということでKindleについて。
(折角なので記念コピペ)



60 秒で書籍のデータが手元のデバイスに届く(しかもiPhoneやiPodにも)のって素晴らしい世界だなと思う。例えばいま住んでいる地域の中央図書館は、幸いなことに欲しいと思った資料はたいてい所蔵している。(小林秀雄の本居さんのCDを借りている人は早く返してください)

ところが、ここから1時間ほどの湊町では「巡回図書館」なる車を介さないと世間一般でいうところの図書館にアクセスできないというのが現状だ。

こんな時にnetに繋がりさえすればトキオだろうとアラスカだろうと同じサービスが受けられるのはすごい魅力である。先端技術は田舎のほうがポテンシャルは高いのね。

ここで、気になるのが「米大学が講義にKindleを導入してみるも、不満集中」(Link)という記事。この不満も痛いほどわかる。

私の場合、書籍にラインを引くのはステッドラーの朱色の色鉛筆と決めている。紙の光沢具合によっては一段柔らかい三菱の赤鉛筆が登場する。これは長い間の習慣であって、これでなくては「気持ちが悪い」といった類の事柄だ。ちなみに気持ちいい朱色と黄色いラインマーカーがあれば他のものはたいてい許容できる。

髭を剃るにも哲学があるように、線を引くにも流儀というものがある。大仰に言えば個人が文献と対峙するときの勝負というか作法だ。

Kindleの作法がどんなものかは触ったころがないので判らないのだけれども、長い時間をかけて作った「自分ルール」を内包して余りあるほどの懐の深さではないみたいだ。

線を引いたり書き込みをしないまでも、1冊の本の中での空間と内容のリンクというのは無数に存在して、嗚呼あれが書いてあったのはたしかこの辺のページの右上あたりで、というような奥行きのあるビジュアライゼーションの連鎖が本を読む行為の中で結構大事なのではないかと思う。

ページの概念がなくなると(スライダーの位置とか付箋機能はあったにしても)読み返す醍醐味は減りそうだ。いやいや、そんなものは自己満足で、全文検索すればいいのかもしれないけれど。

以前、w-zero3[es]を使っていた頃、青空文庫の萩原朔太郎を一通りダウンロードして読んでみたことがあった。けれど、読み通せたのは紙で読んだことがある項ばかりだ。新しい項に挑戦してどこまで読んだか記憶させても、次に続きを読もうとする時のパラパラめくる感覚がないと、どうにもスイッチが切り替わらない。結果、拾い読みしかできなかった。

恐らく、振り返ることなく読み捨てる系の情報ならいいのだろう。新聞とか雑誌とか。
これらで保存したいと思う情報は何らかの手段でスクラップすればいいのだし、それ以外で振り返る必要があれば検索に頼ればいいのだ。


と、ここまで書いて、これも世代なのかもと思い始めた。携帯で小説を読んでいる世代は、Kindleを過不足なく使いこなすのではないか。
ヤバイ。取り残される側に立っている鴨なう。

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と、投稿しようとしてwebにつなぐと「2010年にGoogleがE-Book販売に参入!?」の記事(Link

えーーーと、青空文庫用のリーダーをDLして再挑戦するぞするぞするぞ!!!

2009年10月12日月曜日

体育の日

昨日に引き続き駒沢公園である。
インラインスケートを戸棚から出してベアリングにシリコングリスを吹く。
ホッケーのスティックをどうしようかと一瞬迷うが足がVespaだ、積めないので諦める。
とはいえ数年ぶりのインラインスケートだ。きっちり足を締め付けて立つと流石に怖い。と思ったのは最初だけですぐに身体が自然と思い出す。このへんは自転車と同じだ。

全身を使うスポーツにはそれぞれ独特の気持ちよさがある。いまはまっている水泳では水の抵抗の中でツルッと進む感覚。インラインスケートでは思い切りバンクしてエッジを立ててターンする感覚だ。

私の軸足は右である。故に右ターンは程なくして手をついて曲がれるほどに攻める事が出来る。一方情けないのが左足だ。スキーやスケートで共通の感覚だと思うのだけど、内エッジは誰でも使える。外エッジを如何にコントロールできるかがテーマになってくる。半ば意地になってエッジの使い分けの練習を繰り返す。一本足で左右に曲がりながら反動をつけて進む。かかとが浮くので絞めなおして一本足のスラローム。左右のターンで両足が同じラインを追えるようになる頃には締め付けすぎた足が限界になっていた。本日はここまで。

昨日のベンチに辿り着くには坂を下って信号を渡らないといけない。流石にスニーカーに履き替えた。そういえばインラインスケートを始めた頃、ハートビル法というバリアフリーに関する規定が努力義務として課されるようになって燦々文句を言った末にインラインスケートで入れない場所に出会ってすみませんすみませんと思ったのだった。

ベンチで胡坐をかきながら昨日の本の続きを読んでいると、そういえば円覚寺で座禅会に参加したっけと目を伏して座禅に突入。
隣のベンチに関西から初めて駒沢公園にやって来て「めっちゃいい公園やんかー」と関西弁で賞賛する女子と、この公園をホームコースにしているアスリート男子の会話が 耳に入ってくるというか瞑想とか無理です無理ですってばと読書に戻る。
座禅初心者にはTPOが大事なのだ。


帰宅して事務仕事を少しこなしてプールへ。
期せずしてこれ以上ないくらいに体育な体育の日ではないですかと鍋物をつついて夜もふける。しゃしんは携帯で、へろへろになって植え込みにへたり込むの図


2009年10月11日日曜日

駒沢オリンピック公園

久々に飛び切り美味い珈琲が落ちたのでポットと本とカメラをチャチャパックに詰めて公園へ。自分で挽く珈琲って何でこんなに味が変わるのだろう。いや逆に一定の味が出せる腕というのもすごいものだなと思う。

一日過ぎてしまったが、この公園で東京オリンピックが開催されたのだなと思い出す。体育館の屋根の懸垂曲線が誇らしげに見える。確かHPシェルだったはずだ。芦原さんは設計しながら、そして完成したときに胸が震えたんだろうな。

休日なので公園は混んでいる。気分のよさそうなベンチを求めて公園を半周ほど進むと、2m角ほどの正方形のベンチが新しく設置されていた。自転車ですぐ脇まで乗り入れできるのもポイントが高い。折角大きなベンチなので靴を脱いで裸足で胡坐をかきながら読書開始。

ヒトが獲得した最高の賜物は多様性だ。多様な状態を認めながら社会との関わり方を考えるのが大人なんだろう。などと考え事をしている廻りには映画でいうと人類の脅威が迫っている事も知らずに平和を謳歌している場面のような公園の風景。ベタだけどBGMをつけるとすればやっぱりサッチモだ。とはいえiPodからはワーグナー。

隣の同じサイズのベンチに高齢の夫婦がやってきてストレッチを始める。私の親の世代かもう少し若い。ランニングコースがすぐ隣にあるので走る前のストレッチかと思ったら結局最後までストレッチを続けていた。帰り際に気が付いたのだがご主人の方の動作に麻痺の痕跡がある。嗚呼、父を何とか説得して歩かせるようにしなくては。

日が傾き気温も下がってきた。次回はもう少し調整が効く服装で来よう。しゃしんを撮りながら帰路へつく。

バックパックの上に載っているのは鍋つかみで、魔法瓶の保温に形状も断熱性も最高なのだけど、外で使うのはちょっと気恥ずかしい。