2009年10月18日日曜日

Kindle

webの世界は門外漢な私ですけれども、AmazonのトップページがKindleでそれがページまるっと画像データでAmazon.usに飛ばしますかそれって手抜きって言わないですかそうですかすみません。ということでKindleについて。
(折角なので記念コピペ)



60 秒で書籍のデータが手元のデバイスに届く(しかもiPhoneやiPodにも)のって素晴らしい世界だなと思う。例えばいま住んでいる地域の中央図書館は、幸いなことに欲しいと思った資料はたいてい所蔵している。(小林秀雄の本居さんのCDを借りている人は早く返してください)

ところが、ここから1時間ほどの湊町では「巡回図書館」なる車を介さないと世間一般でいうところの図書館にアクセスできないというのが現状だ。

こんな時にnetに繋がりさえすればトキオだろうとアラスカだろうと同じサービスが受けられるのはすごい魅力である。先端技術は田舎のほうがポテンシャルは高いのね。

ここで、気になるのが「米大学が講義にKindleを導入してみるも、不満集中」(Link)という記事。この不満も痛いほどわかる。

私の場合、書籍にラインを引くのはステッドラーの朱色の色鉛筆と決めている。紙の光沢具合によっては一段柔らかい三菱の赤鉛筆が登場する。これは長い間の習慣であって、これでなくては「気持ちが悪い」といった類の事柄だ。ちなみに気持ちいい朱色と黄色いラインマーカーがあれば他のものはたいてい許容できる。

髭を剃るにも哲学があるように、線を引くにも流儀というものがある。大仰に言えば個人が文献と対峙するときの勝負というか作法だ。

Kindleの作法がどんなものかは触ったころがないので判らないのだけれども、長い時間をかけて作った「自分ルール」を内包して余りあるほどの懐の深さではないみたいだ。

線を引いたり書き込みをしないまでも、1冊の本の中での空間と内容のリンクというのは無数に存在して、嗚呼あれが書いてあったのはたしかこの辺のページの右上あたりで、というような奥行きのあるビジュアライゼーションの連鎖が本を読む行為の中で結構大事なのではないかと思う。

ページの概念がなくなると(スライダーの位置とか付箋機能はあったにしても)読み返す醍醐味は減りそうだ。いやいや、そんなものは自己満足で、全文検索すればいいのかもしれないけれど。

以前、w-zero3[es]を使っていた頃、青空文庫の萩原朔太郎を一通りダウンロードして読んでみたことがあった。けれど、読み通せたのは紙で読んだことがある項ばかりだ。新しい項に挑戦してどこまで読んだか記憶させても、次に続きを読もうとする時のパラパラめくる感覚がないと、どうにもスイッチが切り替わらない。結果、拾い読みしかできなかった。

恐らく、振り返ることなく読み捨てる系の情報ならいいのだろう。新聞とか雑誌とか。
これらで保存したいと思う情報は何らかの手段でスクラップすればいいのだし、それ以外で振り返る必要があれば検索に頼ればいいのだ。


と、ここまで書いて、これも世代なのかもと思い始めた。携帯で小説を読んでいる世代は、Kindleを過不足なく使いこなすのではないか。
ヤバイ。取り残される側に立っている鴨なう。

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と、投稿しようとしてwebにつなぐと「2010年にGoogleがE-Book販売に参入!?」の記事(Link

えーーーと、青空文庫用のリーダーをDLして再挑戦するぞするぞするぞ!!!

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